今、『アウステルリッツ』(W・G・ゼーバルト)を読んで思った事。
最近、この本の新装版が出ましたのであらためて読んでみました。
表紙の男の子の写真が気になり手に取ったら、ゼーバルトの世界観に引き込まれてしまったように_ふと眺めて目に飛び込んでくるものから、突然様々な印象が湧き上がるような、未整理の無意識的な状態そのままを文章にした感じの、延々とした言葉の羅列。ものを見た時に人はどう認知していくのか、というのを生々しくあらわしたかのよう。
登場する人物、建築史家のアウステルリッツが街を徘徊し、辿り着いた建築物、その歴史的背景を畳み掛けるような情報知識で一気に甦らせていく。
その描写は、自分が曰くある様相の建物に近づき目を凝らした時や、内部に入り込んで外界とは遮断されて段々と空間のディテールが見えてきた時など、そこの空気感に包まれる感覚と通じるものがあります。
”場”から発せられる曖昧なものを認知する事ができるのは、人間の特性のひとつ。隔絶された場所、閉じられた場所、そして自分とは直に関係無いかに思われていた場所ですら、目を凝らすと色々な繋がりの糸口が見えてきます。
実際に場所へ赴き色んな人と出会ったという個人的な実体験から、様々な感覚が拡張していき、段々とその場の背景までも重層的に思いを馳せれるようになる。そうして新たな視点が生まれていったりします。
作家及びアーティストは、それら感じ取った要素を各自独自のかたちに変換させ提示していく事で、作品という表現行為を生み出していく。
『アウステルリッツ』には、個人の記憶と近代史を巡る錯綜が目まぐるしく描かれている。掲載されている写真や図表なども、個人的なものから記録や資料など様々な視点が錯綜し、文章との連動によって重層的な世界観を感じさせる。フィクションなのかノンフィクションなのか測りかねる作品。
写真評論で著名なスーザン・ソンタグも賞賛したという作家です。
ところで現在、感染症対策ため外出自粛となったり、人々の行動が制限されている状況になる。(自分も海外ロケはしばらく中断となりそうで。)おもむくまま自由に動き回れる事ができず、人間の本来の欲求である新奇探求心が押さえつけられるような事態では、鬱屈した気分になるのは致し方ない事。この状態からうまく好転するのを願うばかりです。
それにしても、行動を制限する事がその後の開放に繋がる、という何ともアンビバレントな状況ですが。今まで意識せずに、呼吸し自由に行動できていた事によっての体験により、人の想像力もはぐくまれていたのですが、これからどのように変化していくのか。様々な行動様式の変更を求められていますが、今後はささやかな実体験のリアルさから、想像されるイメージを豊かに広げていかなくてはいけない状況となっていくのでしょう。
そして、これから益々、リアルとバーチャルが補完し合う世界になると、かえって五感を働かせるリアルな実体験が貴重となっていくでは、と思ったりします。この本を読んで、”目の前にあるもの”と想像力や知的好奇心の広がりの関係性を再確認した感じです。