junkoの日記

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消されたものと消されなかったもの。カラガンダにて。①

2019年9月、カザフスタン中央部、ステップ地帯の真っ只中にある街カラガンダを訪問した。

この街は、前年に訪れていた前首都アルマティと現首都ヌルスルタンを南北に結ぶ鉄道や幹線道路の間(ヌルスルタンから150kmほど南東)に位置し、カザフでの人口第4位の都市。

主要な産業が石炭の採掘という場所で、その成り立ちが採掘のために、平原の上に造られた街ということらしい。当初はそんな開拓地のような場所だったと今は想像できないほど、街としてそれなりの規模の佇まいになっている。

 

この街のもうひとつの顔は、ロシアの宇宙船ソユーズの打ち上げがある時、ソ連時代から宇宙飛行士の滞在場所になっているという事。同国内のバイコヌール宇宙基地からここは800km以上も離れているのだが、バイコヌールとカラガンダの間にある広大なステップ地帯が、宇宙船帰還の際に着陸地になっているためのようだ。街中には宇宙飛行士を讃えるモニュメントがあったり、ゆかりのある施設には彼らの写真(世界中の人が知っているガガーリンやテレシコワなども。)が飾られていたりする。

この街にもソ連時代からの特異な史実があるもよう。

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20世紀前半から戦後復興にかけて、この辺りで大量の石炭採掘事業を進めるために行われた事は、この地域の特徴的な歴史でもある。

事業推進のために、強制収容された人達による強制労働があったため、郊外には多くの収容所(ラーゲリ)が造られる。戦後は各国の捕虜の人達もこの地に送られてきたために、カラガンダ地方はカザフスタン最大の抑留者収容所のある地域となりました。日本人抑留者は約3万4千人以上が収容されていたという。

これらの事はソ連のから独立後、検証し記録を残すために収容所博物館を設立、収容所で行われていた事や資料などを展示公開している。

このような過去の出来事は、人々の記憶からなるべく消し去りたいと思ってしまう事ですが、現在でも当時の面影を残した場所が、この街には沢山残っている。記憶はほぼ薄れても、その過去と関わりがあった物たちは現前に立ち並び、この街の人々の暮らしの背景として溶け込んでいる。

 

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中心街のメインストリートから、脇に延びる道路は古くからある佇まいが伺える。その道沿いにある集合住宅の多くは、収容所の人達が建設に携わったという。中心街に近いエリア、見ると外観に所々意匠が入っていたり、中流以上の人達の住まいであったような雰囲気が感じられる。

 

 街の成り立ちや地域の歴史を具体的な情報について知るべく、出会った街の人の紹介でカラガンダ博物館へ出向く。そこで学芸員らしき人に対応してもらい、日本人抑留者の件も資料を見せてもらいながら話を伺う。

地元の大学から出版された分厚い書籍、その本はカラガンダに収容所があった頃の資料(写真や地図、メモや手紙など)が沢山掲載されているものだった。抑留者達とこの街の成り立ちとの関係性も紹介されていて、日本人についての資料も、彼らの収容所生活の写真や手紙など色々と掲載されている。所々気になるのが、彼らの写真や手紙の中では収容所での生活は楽しい事もあった、という事を提示している点。資料を管理していたのは監督側ゆえに、戦後の抑留者達による証言からの過酷な状況があった事は見えにくい。

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彼らが建設に関わった建物なども写真掲載で紹介。後から同じ場所へ行ってみると、周辺の環境も含めて、それほど変わっていないように見えた。f:id:juwako:20190919152708j:plain

 

実は、カラガンダに来たかった大きな目的は、日本人抑留者が建てたものとして、「Summer Theater(夏の劇場)」という劇場の痕跡を探すという事だった。

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この劇場は街の人達の憩いの場にもなり、老朽化で取り壊しの話になった時、反対意見も出たほど住民にとって馴染みの場所になっていたらしい。結局一部を公園に移築する事となったが、そのために撤去する際の逸話では基礎がしっかりしていて壊しに難渋した故、ここでも日本人 の工事の堅牢さが話題になったという。

事前の情報では、公園に移築して一時保管の後、柱部分を新しい博物館?の入り口に使用する事になった、というところまでは辿り着いていた。現地で実物を見つけたいと目ぼしい場所を探してみたが見当たらず、街の人や学芸員の人からも、それは公園にあったがその後の行方は分からないと言われた。残念ながら、この劇場の痕跡は行方知れずという事で、この件の調査を諦める事にした。

写真を見る限り、大掛かりではないものの建物は意匠にも気を使っている様子が伺え、柱はエンタシスにしたりとこだわりも見える。この建物が日本人と現地の人との繋がりの象徴のような存在に思え興味深く感じていた。なので、こちらを実見する事がかなわなかったのは、とても残念な思いだった。あらためて時間の経過を感させられる。

 

 

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博物館で見せてもらった写真で、日本人が現場で関わったという建物がある通りのひとつ ”レーニン通り”(現在は改名されたよう)。街の中央部にあるゆったりとした幅広い道路の両脇に、ロシア様式風のアパートメントが数キロにわたって並んでいる。商業施設はほとんど無いエリアなので、落ち着いた雰囲気のまま現在に至り、今では瀟洒な住宅街という様相を感じさせる。壁面などにそれぞれの建物独自の装飾も見られ、現地の人によると、この装飾なども日本人の手によるものがあるという。

撮影中に実際此処に住んでいる人と出会い、お宅の中まで入れてくれて話を聞く事ができた。建物外観は経年劣化が見られるが、部屋に入ると打って変わって綺麗にリノベーションされている。住民の方はこの建物で冬の寒さ(カラガンダの冬はー20℃は当たり前)をあまり感じないと話す。日本人が建設に関わった事も、もちろん知っているという反応が返ってきた。大戦後の状態を経験した年代以上の人達は、その事を大抵は知っているという。戦後多くの抑留者の人々が動員された史実がある故、彼らの姿は街の人々の記憶にも残っているようだ。

 

結局、当時の面影を現在まで残しているのは、人々の生活に根差している場、ストリート沿いにある。

この街に限らず戦後の街並みは、その整備を急いで行うという為政者の営みでかたちが造られていった。性急な事業で出来上がったにも関わらず、其処にいる人達にとって時代を経ても必要であるものとして、時を重ねた街並みの様相で残っている。

時代を超え重層的に絡み合う事柄_これらを造った人々はもう半世紀以上前には此処からいなくなっている事、彼らの強制させられた労働によって造られたという背景、それでも現地の人達に印象深く記憶されている、という経緯などが見えてくると、人々が其処で日々平穏に過ごしている現在と、過去にあった事とのギャップ_時間を経たゆえ逆説的に浮かび上がってくる。

その場所としてのトラウマであったような過去が、時を経て変化していく過程を垣間見た印象だ。