junkoの日記

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菩薩、上野に降臨。

東京国立博物館で開催中の「国宝 薬師寺展」を観覧した。有名な「日光菩薩」「月光菩薩」登場で話題の展覧会。今回の目玉はなんと言っても、両菩薩像ともが始めて寺外で公開された、という事である。
彼ら(?)のお姿は、修学旅行などで結構見ている人も多いのではと思われるが、かく言う私も中学の修学旅行で一度御対面済みである。しかし当時中学生の私にとっては、集団での観覧にウンザリ気味。十分堪能出来なかったために、菩薩像の記憶は今いち薄かったような・・。そんな旅行中数多く見た仏像のなかでも、薬師寺の仏さまたちは、その端正なお顔やスマートなシルエットが醸し出す、どこか超越的な雰囲気で、朧気ながらも記憶に残るものがあった。
あれからすでにン十年経ち、かえって新たな心持ちで拝見できるのでは、と期待しつつの御対面である。



今回、さらにこの菩薩像についてちょっとした話題といえば、光背を取った姿で展示されているという事。つまり像の周りを360°方向からグルリと見渡せるのだ。寺院の拝観では有り得ない状況である。
会場に入ってしばらくすると、空間をできるだけ十分にとった展示スペースの中に、菩薩像は”スックリ”と佇んでいる。まさに”スックリ”と大木のように、2体が適度な距離を保って佇んでいる。
寺院とは全く違う空間で、光背を取った菩薩の姿を拝観。観ている側としては、かえって像本来の存在感をジックリ観察できる。
ほぼペア・ルックの日光・月光両菩薩を色々な角度から比較してみたりする。衣装や装身具などの意匠はほぼ同じ。けれど、衣装の襞や流れ・装身具のディテールや位置などを、両者とも微妙に変化させている。「なるほど、にくい演出だなー。なかなか凝っているぞ・・。」と感心しながら、彼らを見上げつつグルグル回ってみる。
やはり興味を持ってしまうのは、2体が対照的にほぼ同じ姿で対になっている事。演出として不思議な効果を感じる。双子に出会った時の奇妙な感覚に近いような、彼らを何やら特別な存在にさせている。尋常ならざる者として存在する菩薩たち・・。



それにしても、見れば見るほど立ち姿のスタイルがいい。両体左右対称に少し腰を捻っているが、全身の重心バランスを考えての捻りなので、見ていて安定感がある。片足を少し浮かしているポーズがなんとも優雅なスタイル。そのようなポーズで佇む菩薩の肌は、照明の明かりを鈍く照り返し、官能的な雰囲気さえ醸し出している。
像の周りをどの角度から見ても、その優美な姿が損なわれる感じがしないのにも驚く。普段見られる事がない背中も、大変丁寧な造りで美しいシルエットである。ほぼ1300年前の彫刻であるが、作った人の技術力や美的センスに驚嘆する。
菩薩像の他にも「聖観音像」が出品されている。こちらは、菩薩像より少し小さいながらも、より全身の比率バランスが実際の人間に近く、スタイルがさらに良いお姿。この像も観客がグルリと見渡せる中に佇んでおり、人々の視線を集めている。
今回あまり事前情報をチェックせずに観覧したので、他にもこれまた国宝の「吉祥天画像」がいらっしゃったのには、ちょっとビックリ。優雅で軽やかな仕草を間近で見る事もできた。私は決して宗教を信心している者では無いが、滅多に御目にかかれない面々に御対面できるのは素直に嬉しいものである。



先日、NHKでこの展覧会に関しての番組が放映されていた。薬師寺から菩薩像が運び出されるまでの記録など、なかなか面白い内容だった。その中で送り出す僧侶の言葉に「今この不安な時代、菩薩様が姿を現すことで人々に伝わってほしいものがある。」との話をされていた。
確かに昨今、世の中で内外とんでもない事が日々起きている。ニュースを見る限りでも、あまりにたて続けで起こる出来事に、ほとんどの人が”困ったものだ・・。”としか言えないお手上げ状態にある。そんな厳しく虚しい現実が存在する中、果たして菩薩像を拝顔したという事で、どれほどの人達に波及効果があるのか。正直言ってこちらには分からないし、分かる術は果たしてあるのかどうか・・。
ただ、目の前にいる菩薩像は確かに美しいと感じる。薬師如来というのは、人々を病気などの災いから救ってくれる仏様である。現世利益の効果も強いその仏様に仕える日光・月光菩薩像も、1300年間という長きにわたって数え切れない人達の視線を集めてきた。そんな彼らには、超越した存在感がある。
「ああ、こんな綺麗なものを見れて良かったなー。」と思える時は幸福である。”いいものが見れた”という感覚は、より多くの人に伝わって欲しいと思う。「”いいもの”が見れない状況というは、幸せではないかもしれない。」という感覚も生まれる。そんな事態は虚しく味気無いと抵抗感を感じて、そこに陥らない策をそれぞれの人が講じていこうとするのであれば、先に述べていた僧侶の言葉にも繋がっていくように思われる。
かと言って、アグレッシブに平和への抗議活動をするだけが抵抗手段でもないと思う。かえって至極真っ当な事を思い返す静かな精神状態が、大きなパワーと成り得るのでは?と考えたりもする。
そんな思いが、この時期にこの展覧会を見ての感想のようなものだろうか。
”いいもの”とは、”興味深いもの”であって、ただキレイなだけではない。色んな”面白いもの”を自由に作り見れる世の中であり続けて欲しいものだ、と至極当然な事を改めて感じる。
そんな沢山の面白いものがある中で、この菩薩たちは1000年以上も生き残り、さらにまた今後1000年生きていくであろうと思うだけで、なんとも気が遠くなる。



上野の山を降りるとそこは、浮世感タップリのアメ横