junkoの日記

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巷でウワサの美少年

半年くらい前から、すでに東博HPでも賑々しくプロモーションしていたので、こちらも結構楽しみにしていた「国宝 阿修羅展」をやっと見に行く事へー。 プロモが効を奏したのか、1日に1万人!の入場者らしいと噂もあり平日を狙って行ってみたが、それでも入場するまでしばらく並ばされるハメとなる。
阿修羅像とは奈良で初対面済み。20年以上前の興福寺宝物館であるが、その時は見物人もまばらな薄暗い室内で、ガラスケースの中にひっそりと佇んでいる姿だった。が、今回はアイドル並みに人々を吸い寄せる存在として、文字通りスポットライトを浴びた姿で登場。「阿修羅」見たさにどうしてこんな大騒ぎとなり、皆が駆けつけるような事態になったのやら。
集客力があるのは、東博側の色んなプロモ効果もあるのでしょう。展示演出も観た目の盛り上げ効果を果たしているようだったし。(薄暗い空間に暖色がかった照明が微妙にあたり、本来の様相であったろう赤銅色にジンワリ浮かび上がる阿修羅像を観て「照明うまいな〜」と思ったり。)
それでもふと考えてしまうのは、観る人にとって”何か”感情移入したり魅了されてしまうところがあるから、これだけ多くの人を動かす事となったのか?(ちょっと大袈裟だけれど)その”何か”は時代を超越して感じられるものだから、こんな現象が起こってしまったのか?その”何か”とは何なのか、大変気になるところ。



「阿修羅」といって私が思い起こすものは、世代的にまず萩尾望都の漫画「百億の昼と千億の夜」(原作:光瀬龍)がある。作中に登場する縦横無尽に動き躍動する姿や、両性具有的な軽やかな存在感は、興福寺の「阿修羅」をモデルにして生まれたキャラクターというのは一目瞭然。
内容は、神の誕生・宗教の成立を仕掛けたののは、宇宙のどこかにいる或る存在者ではないか?というような壮大なテーマ。ストーリーの中での阿修羅は、「人々が認知している神々とは、その存在者に操られているにすぎない者たちではないのか?」と疑念を持つ。そして、その存在者の正体をめぐって戦い続ける戦士という設定。
実際の阿修羅神というも、最高神帝釈天」と戦い続ける魔神という位置づけで大抵語られているようだ。「百億の昼と千億の夜」では、その”なぜ彼は戦うのか?”という理由を、ユニークな解釈で解き明かしていく。時間空間を超越した突飛なストーリー展開と共に、宗教や哲学的な趣きも含んだ内容は、漫画としては高度なもの。当初読んだのが中学生というお年頃の時期もあり、かなり強烈な印象の作品と記憶している。(超越した存在者から地球へ、意図的に文明発生が操作させられた、という設定は「2001年宇宙の旅」にちょっと近いような。当時はそのスケール感にクラクラさせられた。)


いつまでも戦い続け、なかなか勝利する事ができないのであれば、「阿修羅」は随分と救われない存在である。しかし、カルマに取り付かれがちでなかなか理想的に生きる事ができない我々にとって、そのようなキャラクターは何だか親近感が湧いたりもする。加えて、戦いに挑み続ける悩ましい存在というだけではなく、その軍神パワーをもって守護神という地位も与えられたりもする、ちょっと変わった神様なのだ。善悪で割り切れない流動的な立ち位置であったりする姿は、悩み多き我々人間たちにとって、神という超越的な存在とは違う、何かリアルで近しい様相を感じてしまう。
そして、かの「阿修羅像」は、その悩ましい内面を表すかのように、ひそやかに眉間を寄せた表情を見せているのである。細身でスレンダーな体型は少年の姿であり、その微妙な表情のため、観る者は初々しい精神を持った生身の少年と対峙するかのような感覚を覚える。1200年以上前に作られたものが、このように生々しい印象で人を惹きつけるパワーがあるというのも驚きである。
宗教的な教義以前にある、感覚的に訴えかけてくるもの-- ”混沌とした精神”やら”崇高な悟り”などの狭間で、微妙に揺れ動いている精神-- を具現化させたような、わずかに表情の違う3つの顔。さらに不可思議な空気感(ゾーン)を作り出す、舞うように軽やかな6本の腕。このナイーブな神様にうってつけだったモデルが、”生身に近い少年の姿”という感性。これは、現代の私たちにも非常に分かりやすく、あまりにも感情移入しやすい。道理でアイドル並みの人気が出る訳である。


それにしても、国宝・重文がズラリと並ぶこの展覧会は、主役の阿修羅像以外にも見どころ満載。同時出品の十大弟子八部衆の面々も、それぞれキャラクターが見えて面白い。
別会場では、いきなり3mを超える菩薩像が屹立(それも2体!よくぞ持ってきたものである。)し、その手前に威風堂々とした四天王がズラッと控え並ぶ迫力の空間もあったりする。四天王像の作者は運慶の父、康慶。慶派独特の力量感、物量感で、阿修羅像とはまた違った意味でのリアルさ。(近頃、相撲力士の朝青龍白鵬の風貌に近いものを、慶派の重量感ある立像を観てふと感じたりする。日本人的感性からは抜きん出たような圧倒感。大陸出身の力士のように、張りのあるエネルギーに通じるような感じ。)
さすが”国の宝”とはよく言ったもので、そのパワーを十分に見せつけられてしまった。このところの慌しい日々、ヒマを見つけてでも観に行った甲斐があったようだ。