junkoの日記

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「空海と密教美術展」


日本からちょっと離れていると、日本のカルチャーに浸りたくなります。
久し振りに東京国立博物館へ行き、気になっていた 「空海と密教美術展」を観覧した。(9/25終了)



東博は、このところ展覧会ごとにあの手この手で盛り上げる。マメにイベントをうったり関心を惹きつけるせいか、客層も広く集客力もすごいらしい。今回の展覧会告知 ” 国宝重要文化財98.9% ” という分かりやすいキャッチーなコピーにそそられ、予想通り行列ができていた。会場内も展示物を間近で観覧しようとすると苦労した。


今回は国宝・重文の展示の多さも目玉ですが、「空海」「密教」というキーワードに思わず惹かれ、関心を持ってしまった人も多いと思う。
日本人なら、ほぼ誰でも名前は知っている空海遣唐使として唐へ行って、密教を体系的に始めて日本に伝え真言宗を開いた、という事くらいは歴史の教科書でも御馴染み。しかし、この密教というものを具体的に説明せよ、という事になると果たして如何ように説明すればよいのか、と考え込んでしまう人も多いはず。
加えて密教といえば、加持祈祷などの儀式のイメージや不動明王像が多く、どこか他の仏教宗派とは違うアグレッシブでディ−プな印象を抱いてしまう。そして曼荼羅図像のような、抽象的イメージを世界観として掲げている事で、さらにミステリアスな宗教に感じて見える。


このような深淵なイメージを伴いつつ、この展覧会では文字通り、滅多に拝めない仏像や文物が間近に見れるとなれば、大いに興味をそそられる。私は真言宗徒でもなく仏教関係者でもない、一般的な観客として観覧する。そして、約1200年前に生まれた教義にもかかわらず、パワフルな思想的イメージが展開されている印象を持ちました。



(平成館と本館の間から、東京スカイツリーが見えるというオマケがありました。)


今回展示のハイライトは、東寺講堂の立体曼荼羅です。実際の仏像21体のうち、8体が一堂に公開されている最後の会場では、一気にその仏像たちが見渡せる広い空間となっている。宇宙の闇を思わせるような空間の中に、彼らがボンヤリと浮かび上がる。いつもながら洗練されたライティングが素晴らしい。仏像たちがポージングを決めたモデルのようにも見える。
一点一点の像は、造形的にも大変見応えがある。リアリティのある表情、優美な衣装や装飾、表面は漆を使用しているので、しっとりと滑らかに仕上がっていて、まるで人の肌のような張りを感じさせる。特に帝釈天はなかなか端正で艶ややかなお顔。近くの女性客たちが「イケメンだよねー。」と囁き合っていました。
像はお互い間隔を空け配置しているので、像の周りをグルリと廻れる。金剛菩薩坐像は光背が無い状態で展示、お寺の拝見では通常見れないお姿だ。その後姿の美しさには驚いた。髪の毛筋や背中の肉付き、衣の襞など、表側と全く同じように手が入っている。
持国天増長天のデフォルメもすごい、けれどバランスは取れている。薄暗い寺院内で見たら、さぞや恐ろしい存在感であろう。。完成されたのが839年というはるか昔。しかし、年月を感じさせないエネルギーに満ちた姿や躍動感あるリアルさ。これは鎌倉時代の運慶も絶対参考にしただろう。


見どころは他にも有り過ぎるほど沢山。。空海の天才ぶりが一目で感じられる、彼が20代半ばの書かれた見事な書の数々。武器からイメージされたという密教法具は、常々素晴らしいデザインと思っていたので、実物の怪しくも重厚な輝きを堪能。そして、掲げられた4m四方の巨大な両界曼荼羅図(血曼荼羅)に圧倒される。


果たしてこの展覧会を見て「空海」「密教」をいくらかは理解できただろうか。教義などに関して疑問に思えば、巷にはそれらの書籍が沢山ある。実際に仏像たちや文物を見て伝わってくるものは、当時の人達がエネルギーをそこに注ぎ込んだ強い感覚だ。教義とは別に、その感覚へ関心が湧く。
別名「曼荼羅」と呼ばれる図の所以は、平清盛の頭の血を絵具に混ぜたと言われているから。これほど強い念を入れる事さえ許容してしまう宗教へ、当時の人々が向かう思いは、今日の私達の理性的な感覚を超えたものだろう。
このような人々の混沌とした願いを抽象的にまとめ上げたのが、宗教という形式になった気もしてくる。その抽象的な思想を、様々な神様の形に置き換え、うまく進化させ体系化できた人に由って、新しい宗派が出来上がる。
密教の仏や菩薩たちは、宇宙の真理(法界)そのもの(法)だそうだ。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのだ。今回の展示物を見て、こちら側にも強いイメージを感じたのは、空海がはっきりとした強いヴィジョン・イメージを持っていたからなのか。


それにしても、宗教の聖像としては、キリスト教の聖人たちは大体現実にいた人達だが、仏教の神様は、抽象的なイメージを具体的にかたちにしたものだ。(開祖シッダールタは現実の人だったが、時代が遡るにつれどんどん抽象的な存在になってしまう。)見るたびにいにしえの人達の想像力に感心する。