junkoの日記

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消されたものと消されなかったもの。日本人抑留者の痕跡。

中央アジアの国々は、以前は旧ソ連時代の共和国であり、現在もその頃の名残りを留めた建物や遺構などが数多く現存している。

それらの国々について調べてみると、すぐに気になる事柄として、日本人抑留者の墓地が各地に多数残されている事です。

戦後の日本人のシベリア抑留者の数は約57万5千人に上り、その中のうち過酷な環境や労働によって、約5万8千人が死亡した厚生労働省2019年12月公表。 ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料の公表(特定者の追加掲載)について  → 厚生省HPへ )とされその人数の多さに改めて驚く。

 

それと共に、今でも現地に残されている日本人抑留者の痕跡の多さにも気付かされる。この多数の彼らが関わったゆえにそれらが在る、と徐々に見えてきたりする。今でも実際に人々の生活のライフライン施設だったり、アパートメントや街のランドマークにもなっている公共建造物として現存しているものも多い。

彼らにまつわるエピソードや、当時日本人と接した現地の人達の話も多々残されている。そんな出来事が生まれた状況に興味を持ち、実際にまだ現存している建造物や、情報だけで未確認だが興味深いと思っているものなどを訪ねる。

去年2018年、ウズベキスタンの首都タシケント Tashkent、ウズベキスタンで一番大きな街アルマティ Almaty、今年は内陸部にあるカラガンダ Karaganda を訪問した。( 詳細は後日掲載予定。)

 

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当時抑留者だった人々の事業労働の話では、先が見えない過酷な日々が続いたという史実を、沢山の方々が残されているのは周知の通りです。そんな環境の中、それ故であるからか、作業に没頭し自らの知識を発揮する事で生き延びていったり、現場で他国の人々と協働しながら、お互いの工夫で作業進行していったという話も散見される。

そのような彼らの姿を見ていた現地の人達のエピソードは、実際に自分が現地で出会った人々からも耳にした。今だに当時の記憶を覚えている人や伝え聞いた出来事を話す人が沢山いるのだ。そのほとんどが日本人や彼らが造ったものに対して良いイメージを持っている。シビアな状況の中、現在まで活かせるものを築き上げたという尊敬の念があるという。

 

これほど広く沢山の人々が経緯を知る事とはいえ、中央アジアの国々からの情報は日本にはあまり多く入ってきません。現地では多くの人達が「これらは日本人達が造ったものだ。」という事は当たり前のように認知されている。それは日本人への好印象に繋がり、戦後長期間に渡って色々な相互交流が生まれるきっかけにもなっている。 

しかし、このような事は当の日本ではほとんど知られていない、というのが気にかかったりもします。

 

 

当時の厳しい状況は当事者でない者にとっては計り知れないが、その困難の中で様々なエピソードから感じられたことは、人がものを作るという行為は、人が生きていくことに影響をいかに与えるのか、そして生き延びていくうえでかなり重要な要素であるのかもしれない、と考えさせられる事象にも思えた。

 

戦争によって生じたもののうち、収容所などの負の痕跡はほぼ無くなっているが、街造りのために造られたものは、人々の色々な思いを凝縮された遺構のように現存している。何が消えて、何が残されていくものなのか、思う。

 

 

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