junkoの日記

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消されたものと消されなかったもの。タシケントにて。

2018年5月にウズベキスタンの首都タシケントを訪問する。

この地域はもともとは中東からの流れも汲む文化圏、旧市街地には歴史的なモスクがいくつか残っており、街並みも所々にイスラム的な要素を感じる。タシケントの位置を地図で見ると、陸路でヨーロッパや中東から、中国経由で東アジア地域へ向かうルートの、まさに玄関口のような場所。そのため歴史的に通商の要衝として、様々な人達が治める所となる。今でも街で行き交う人々の姿に、多民族国家と言われる所以を感じる。

私が訪問した時期は、ちょうどラマダン月だった。私がたまたま出会ったムスリムの人達は慣習を守って日中の飲食は控えていると言っていたが、こちらには気にせず飲食してくださいと言われる。世俗主義が多数なので、ラマダン月でも街中では宗教色が強い雰囲気はほとんど無い。もちろん他の宗教、無宗教の人達も沢山いるわけで、お互いの文化と適度に共存させる風土は、古くからの多民族国家ゆえなのか。

 

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タシケントにある日本人抑留者の墓地は、中央アジア一帯にある埋葬地の中で、一番良く整備されている所としても知られている。公営墓地の一角に日本人抑留者共同墓地として87名の日本人が眠る。観光ツアーでも日本人が訪れるほどの場所になっている。

その墓地のすぐ近くに、日本人抑留者に関する資料館がある。館長のスルタノフ・ジャリル氏(ドキュメンタリー映画監督)からお話を伺う。彼は、子供時代に街で度々見かけた日本人達を興味深く眺めていて、長年彼らの事が気になっていたという。そして、あらためて日本人の関わった事業について足跡を調査し、ドキュメンタリー映画「ひいらぎ」を製作。元抑留者と連絡を取ったり、当時関わりのあったウズベキスタンの人達と引き合わせたりした。その過程で様々な資料が集まり、より多くの人達にそれらを公開し、この史実を伝える博物館のようなものを、との思いで資料館を作ったとの事。

彼からは、タシケントの街中にある施設で、日本人が関わったという事がまだあまり知られていない場所を教えてもらった。市街地中心部の目抜き通り沿いにある、今では時代がかったイスラム風の趣きのアパートメントやロシア様式の役所の建物だ。その古風な装飾と佇まいが、現在は街に風格を与えているようにも感じる。

 

旧ソ連時代、終戦の1940年代後半から1950年代前半、戦後の街造りのために様々な国の抑留者達が動員された。当時、ウズベクソビエト社会主義共和国(現ウズベキスタン)には約23000人もの日本人捕虜がいたという。共和国の現地の人達と街中で作業していた彼らとは、国同士で戦った間柄ではなく、たまたま遭遇したという状況なので、交流が生まれる事への感情的な抵抗はお互い少なかったかもしれない。もともと色んな人々が近くに暮らしていたという土地柄、異国者に対して関心を持って見ていたのだろうか。

 

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タシケントには日本人抑留者が関わった施設として、すぐに挙げられるものがある。中心街にあるナヴォイ・オペラ劇場だ。

State Academic Bolshoi Theatre named after Alisher Navoi

戦時に建設途中だったこの建物を、終戦後457人の日本兵が仕上げ工事の担当をしたという。比較的温暖な地域なので、この現場では厳しい生活環境のため亡くなった人はいなかったと言われて、死亡者2人は事故死であった。

1947年竣工、この街のランドマーク的なオペラハウスとなった。2017年の落成70周年を機に、大掛かりな修復工事がなされ、私が行った時には随分と綺麗で壮麗な印象を受けた。緻密なイスラム風装飾は、独特な雰囲気の建築物として目を惹く。建物外壁には日本人が建設に貢献した、というプレートが掲げてあり、”抑留者”や”捕虜”ではなく「日本国民」という表現が印象的である。

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あまりに有名な場所なので、ここでの逸話は色々エピソードが残されている。それらは色んな著作にも著されているため知る人も多い。(自分が他の地域でも度々耳にしたのは、日本人が担当した建物は、りわけ頑丈であったということ。)

それにまつわる話で有名なエピソードは、1966年タシケント直下M5.0の地震が襲った時、このナヴォイ劇場はほとんど影響が無かったという。そして、街の建物の多くが倒壊したため、ここを避難所として開放し多くの市民を受け入れた。

最初の基礎工事から日本人が全て担当した訳ではなかったが、戦後、最後の仕上げ工事を彼らが行ったという事なので、ナヴォイ劇場が地震で倒壊しなかったのは、日本人が丁寧な仕事で完成させたおかげ、という印象があるようだ。

そして、現地のウズベク人との交流もあったらしく、その時の日本人とのやり取りを良い印象として記憶している人も多かったのだろうか。工事現場の端材で子供に玩具を作ってあげたという話や、先の資料館では日本人に作ってもらったという机などがあった。

 

 

歴史の流れに巻き込まれた人々の痕跡。それらが今も、ある程度に整備されたかたちで残され、現在でも活かされているものとして在る。
強制労働という負のイメージから生じたもの、という事実を踏まえながらも、その状況から様々な人達の思いが記憶として残り、それらのものが後世まで残っていく。故に、人々を終始悲劇的にさせるのみの『負の遺産』とは違うような印象を受ける。

 

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