junkoの日記

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写真家という存在は。。

最近は家での作業が多いために、仕事をしながら以前から気になっていた事をあらためて考えてみる、という事があったりする。それは、作品を作るうえでの手段として写真という方法を取ったという事は何なのだろう、と事なのだが。
具体的には”表現手段としての写真”についてというより、その手法を選んだ人たち”写真家”という存在はどういうものなのだろう、というのが最近気になって考える事がある。
昨今の世の中の風潮としては、”コミュニケーションを重視し共生していく事が大事”というようなキーワードが巷に溢れているように感じる。いわゆる現代アートのジャンルにしても、”創る人と観る人の垣根を無くそう”みたいな参加型やインタラクティブな作品が作られたり、作家個人ではなく複数の人とのコラボレーション形の作品だっだり、という手法が目立っている。
このような昨今の状況においては、写真というジャンルがかなり個人的過ぎる手法になりつつあるのは歴然である。もうほとんど、「日本画」「油絵」というオーソドックスな技法としてのジャンルにおいて、「写真」という技法もそろそろ入りつつある感は否めない。それだけ技法においては確立しつつあるという事なのだろうけれど、やはり作業的にあまりにも個人的過ぎるという姿勢が、作家としてのあり方もオーソドックスな印象を与えてしまいがちなのかもしれない。
最近ではデジタル化が様々なジャンルで行なわれているために、映像と言えば写真よりはビデオ作品が多くなってきている。このような状況の中、敢えて写真という技法を選んだ”写真家”という人は結構存在を問われつつある時期にもきている。まあ、そんな事は作家が考える事ではなく、こういう傾向を評論家なりが分析してくれるといいのだが、写真家自身が昨今の「写真」のあり方を敏感に感じている人も多いと思う。
なぜ「写真」は”個人的過ぎる”のか?
コミュニケーションと言うなら、「写真」だって自分以外のものを取り込んでいるではないか?「日本画」「油絵」よりも外を向いているのではないか?とも思われるかもしれない。が、その取り込んでしまったものを外に出す事において、手順がシンプルなので余計に作家の視線があまりにも分かり易く過剰に出てしまう。いくら見た目がストイックな作風であったとしても、そのストイックさも演出さとして見えてしまう。つまり撮影して何かが自分の中に入ったとしても、自分の見え方でしか捉えていないという事になる。これでは外の世界とコミュニケーションしてるとは、とても言えた状況ではない。”個人的過ぎる”というのは、このような写真家の視線について感じてしまう印象である。それは、以前だったらオリジナリティな視線として受け止められていたかもしれないが、過剰になっていくにつれ傲慢な視線にもなっていく。まあ、これは写真に限った事ではないけれど。
考えてしまうのは、具体的に出会うものに対して、その”個人的過ぎる”視線が果たしてオープンな態度となり得るのだろうか、という事である。
現在あまりにもコミュニケーションが重視されている時代なので、かえって必要以上に個人でいる事が軽視されているとしたら、その”個人的過ぎる”という状態をプラスに変えていけるのであれば見方の転換にもなるだろう。個人的な視点というところから、内省的な姿勢によって得られるものが有るとしたら、そこからもっとオープンな世界が開けていくかもしれない。ちょっと理想論みたいだけれど。
”写真家”の有り方にどんな可能性があるのか、と思ったりする近頃である。自分も写真やってる人間として、色々思うところもあり振り返りつつ。