消されたものと消されなかったもの。アルマトイ(アルマティ)にて。
カザフスタン最大の都市、アルマトイ(アルマティ)に2018年9月訪問する。
中国の西の端にある天山山脈から繋がっている、4000m級の山々の麓にアルマトイの街は広がっている。中央アジアの風土の大部分は、広大なステップ草原や砂漠のような土地柄だが、ここは緑豊かな山並みが望める。1998年まではカザフスタンの首都だった故、中央アジア屈指の大都市で、都会ならではの多様な雰囲気も感じられる。
先のウズベキスタンのタシュケントと比べると、ソ連時代から住民のロシア人比率が多いこともあり、街並みの様子はヨーロッパ的な趣がある。実際、第二次世界大戦中はヨーロッパ・ロシアから工場や病院、大学、映画撮影所などが疎開してきたという事で、西欧的カルチャーが根付いた経緯もあるようだ。
街にいる人々は中央アジアらしい様々なルーツの人達が見られますが、アルマトイは土地柄や近代の歴史もあって、中央アジアの都市の中にあって、ヨーロッパの飛び地のような空気感があるようです。
ここアルマトイで、日本人抑留者の関わった公共施設などが、やはり数多く残っている。建てられてから60年以上経ち、建設時の現場の痕跡を見つける事はほぼ不可能であるが、当時から半世紀以上経って、どの様な状態で現存しているのだろうか。
アルマトイの中心街にひと際目を惹く建物がある。街の東西を通るメインストリート沿いに構えている。規模の大きさや古典主義の重厚的でありながら、色々と細部に意匠や細工が見られる造りからして、歴史的なものという存在感を醸し出している。現在はカザフ・イギリス工科大学としてあるその建物は、ソ連時代のカザフ・ソビエト社会主義共和国だった時、国会議事堂として戦後に建てられたものだ。
竣工は1957年。外観が仰々しいまでの古典主義スタイルは、当時のスターリン政策による新古典様式で建てられた経緯があるのだろう。
この建設に日本人抑留者は関わっている事は、わりと知られている。大学の広報らしき人に会い、日本人との関係性を取材している事情を説明すると、彼もその事は知っており校内の見学や撮影を許可してくれた。そして、「この建物は、当時カザフのホワイトハウスのようなものだった。」と語った。
内部に入ってみると、入り口に中央階段があり、高い天井に大きなシャンデリアが並ぶ抜け感ある空間は、元が国を代表する施設らしい風格を感じさせる。校内は大学という場なので多くの人々が行き交うが、彼らの背景に目を凝らすと、時を重ねた趣きあるデティールが随所に見られた。
現在は公共的建物というにしては、装飾的な造りが目につく。当時の状態に近いままか古色気味であるけれど、かえって往時の格式ある気配を残しているような感じだ。
建物の周りに空間や広場があり、そこを利用したイベントも様々開催されている。大きな公園も隣接している事もあり、現在も此処はアルマトイのランドマーク的な場所になっているようだ。
中心街の南東部にあるカザフスタン科学アカデミー。1953年竣工、近い時代に建てられた先の元国会議事堂はロシア古典主義的でしたが、こちらはカザフの地域色や宗教施設の特徴も加味されているという。
入り口を入るとやや広いドーム状天井になっていて、ここで物音をたてると不思議な反響音がする。天井がさほど高くないので、かえって小さな音も拾い、奇妙な印象の空間になっているようだ。
内部に入ると、列柱が並んでいたり、アラベスク文様の壁面があったり、どこかイスラム的な意匠も加味。当時の雰囲気を残した大振りなシャンデリアや天井画のある講堂、一部博物館エリアになっていたり、記念館として丁寧な扱いで残されている状態が伺われる。
科学アカデミー近くにある第35学校(ロシア語の中・高学校?)も日本人抑留者が建設したとの事が知られている。ここは元から学校という施設ゆえ、装飾的な特色はあまり見られないが、建物入り口の両脇に、直径1mはあるかというコンクリート製の球体が鎮座している。そのため通称「球の学校」と呼ばれている。
学校の先生に話を聞いたが、彼らもここが日本人と関わりがある事を知っていた。「球」は工事をしていた日本人抑留者が持ってきて其処に据え付けていった、というエピソードを話してくれた。その中には、ノモンハン事件での捕虜の人達がいた事も分かっています。
これら建築物はアルマティの街の中でも比較的目立つ場所にあったり、市街地の中の施設として現在も活用されている。経年によりかえって歴史的な雰囲気が醸し出され、現在もその佇まいを残すようなかたちで保たれているのは、この街の人々からランドマークとして認知されているのでしょう。
公共施設の他にも、アパートメントのような集合住宅も、当時造られた状態でまだまだ残されている。取材していた時、現地ガイドのドライバーが偶然にもそのようなアパートに以前住んでいたとの事で、そこへ連れて行ってくれた。
彼の話によると、日本人の建てたものは他のと比べて壁が厚いのが特徴、アルマティは冬は-10℃以下になる事もしばしばだが、そのアパートは耐寒性があったという。壁が厚いので窓が奥まって見える外観、それら建物の特徴で分かると教えてくれた。
公共施設と違って、当時建てられたアパートメントは市街地では再開発のためかなり壊されているようだ。しかし中心街にある中上流層向け集合住宅は、落ち着いた街並みの雰囲気を残すような姿をリノベーションで留め、一部は店舗やシックなホテルになっている。
スターリンの死後、1955年フルシチョフが過剰な建築を撤廃する案を決議し、古典主義(スターリン主義)は衰退していく。その後1960年代から生まれる、独特なスタイルいわゆるソビエトモダニズムへと移行。アルマトイや旧ソ連共和国の街は、このようにかなり違う様式の建築物が共存している。
年代的に気になるのは、抑留者の帰国事業が日ソの国交回復する1956年まで続いたという事。抑留者が関わった建築物は、上記の建築スタイル移行期の直前までになるだろうか。抑留者が帰国し関わる事がなくなってから、モダニズムが生まれていくという流れに、戦後復興から抜け出た時代の変化も感じたりします。
加えて、ソビエトモダニズムは日本のモダニズム建築との関連性も言われている。(丹下健三に影響を受けたと言う現地の建築家もいる。)この件に関して自分が詳細語るのはまだ門外漢、またいずれ。けれどこの繋がりも興味深そうです。